2013年01月26日

大鹿村に行ってきた。 ちょっと高いところから写真撮影。

先日大鹿村に行ってきました。
ちょっと高いところに登ってきました。
上から下界を撮影。



こんな高いところ自動車では行けません。
モノレールです。

現場は違いますが、こんな感じのモノレールで向かいます。
(実際には途中で速くなりません(笑) 全部で4分39秒あります)




小渋側上流方面をぱちり



北の方を向かってぱちり。



どこかと言いますと、
大鹿村は大西公園の裏の大西山の大崩落の上の方です。
http://www2.ueda.ne.jp/~moa/oonisi.html

実はこの崩落の上の方で工事をしていました。
(私じゃないですよ!)

今でも表面がぼろぼろ崩れています。
柔らかいところが先に落ちて
残ったところが、ドカッっと落ちてこないように
きれいに整形しようってことなのでしょうか。

じつは少し前にも1回行っています。
担当者に話も聞いてきました。

上について目に入ったのがこれ!
なんじゃこれ



反対からみてみます。



この形状クレーンではないか!
カニクレーンみたいな小型クレーンが折りたたまれた姿らしい。

http://www.furukawaunic.co.jp/product/unic_mini_02.htm
(メーカーが違うので、カニクレーンとは言わないらしい(笑))

山の上の現場で
機械類はヘリコプターであげます。
なので、大きな機械は分解して上で組み立てます。
クレーンは組み立てるときに必要なのでしょう。

次に見たのがこれです。
普通の重機には付いていない物が付いています。



次は違う角度から。



ワイヤーが付いているのです。
何せ崖の表面を整地する作業です。
普通の重機だったら崩れ落ちてしまう!
ワイヤーで上からぶら下がって工事をするらしいです。




さてさて、この重機には
他にも普通の重機に付いていない物が付いています。

これです。




窓の手前にランプの付いた箱があります。
アンテナも付いている。
何とこの機械は遠隔操作ができるのです。

まぁ、こんな所や



こんな所です。



こんな地形の崖にワイヤーでぶら下がって工事をする機械です。
人間が運転するわけにはいきませんねぇ。
しかもワイヤーで引っ張って移動するには時間がかかるらしく
毎日降りたり、上がったりできないそうです。
こりゃ 人間乗れませんね。

他にもこんな機械がありました。
こっちはちっちゃくてかわいいですね。



こちらもワイヤー付いております。



今日は山の中で働く機械の話でした。  

Posted by かれい♂ at 20:45Comments(2)日記

2013年01月26日

自己満足でもいいじゃん。

昨日からボランティアに関して
このブログに書いてきました。

ボランティア活動が目的になってしまって
本当の目的を果たしてないのではないかと。

ただ、自分が相手のために何かして
満足感を得ることに関しては否定しないんです。

自己満足でもいいじゃん。
って思っているんです。

以前とあるブログで
何かしたときに(確か何かよいこと)
相手の為じゃなくて自己満足じゃなないの?
と批判されたと書いてあって、
私がコメント書いたことがあった。

仮にそれが自己満足でも、いいじゃんって。


学生時代、海外援助に関わっている人の講演を聴きました。
その方曰く、人間は弱い動物だ。
助け合うこと、助けてあげたいと思うことは
本能なのではないか。
そうでなければ人間は生き残って来れなかったのではないか。
そう言っていました。

その時は「ほう、なるほど」と思っただけでした。

後になって考えてみると、
生存するためには、食べなければならなくて、
食べ物を食べると満足感を得る。
幸せな気分になる。


人間として種を残すためには
子孫を残す行為をしなければならず。
子孫を残す行為をすれば気持ちがいい。

暑すぎず寒すぎず
人間が生きてゆくのに最適な環境にいれば
心地よいと感じる。

だから、生物として弱い人間が
生き残ってゆくためには助け合わなければならず、
困難な立場にある人がいれば助けようと思ったり
人を助けたり、何かよい行為をしたりすると
何かしら満足感を得るというのは
人間が生き残るために必要な本能なのではないか
と、思っている。

だからボランティアが自己満足でもいいのですよ。
自己満足がどうして批判されてしまうのか。

それが、自分勝手だったり
自己中心だったり
自分だけ満足したり
他の人の迷惑になるといけないだけで。  

Posted by かれい♂ at 13:51Comments(2)他力本願寺 本堂

2013年01月26日

ボランティアを目的にしてしまうと、そこに留まってしまうのかなぁ

前回のブログでは
途上国と呼ばれる国に物を送る話を書きました。

これまでも地元の新聞などで紹介されている活動で
それってどうなの?って思うことが何度か有りました。
学校での活動です。

どうしてこうなってしまうのか
色々原因は有ると思います。
そのうちの一つに「ボランティアをしたい」
という事が有るのではないかと
思うようになりました。

私は「ボランティアをしたい」と思ったことがありません。
少なくとも記憶の中にはありません。
(物忘れがひどいからかな(笑))


一般的にボランティアとされていることや
ボランティアと名付けられた事はしたことがあるんです。
自分が何かしたい、してあげたい、関わりたい、
など目的があって、
今の状況で自分として何ができるか、
どのような形で参加できるか、どこまできるか考えて、
その結果としてボランティアと呼ばれる形態であったり、
ボランティアと名付けられている活動だったりするいただけなのです。

まぁ、こんな事はどうでもよいと考えていました。

でも、最近結構考えるべき内容なのかも
って思うようになりました。

新聞とかインターネットを見ていると
学校に「ボランティア部」とか
「ボランティア委員会」とかあるみたい。

これって、ボランティアを目的とした集まりなのでしょうか。
ボランティアという行動をすることが目的なのでしょうか。
ボランティアをして自分自身に何かした満足を得ることが目的なのでしょうか。

私はよいことをして自己満足を得ることに関しては
あまり否定的ではないのです。
よいと思っているのです。

ただ、行動が目的になってしまって
本来の目的がぼやけてしまう可能性が有るのではないか。
そんなケースが有るのではないかと思うようになりました。

私たちの目的は何なのか
何のために行っているのか
していることは目的を達成できるのか。
継続的に続けるのであれば
常にそれを問いかけながら行っているのか。

どこかの地域である物が足りないとする。
物資を送ろうと考えるのは自然な話。
そして活動します。

でも考えながら行動を続けてゆけば
様々な疑問が出てくると思います。
物を送る活動を続けていってよいのだろうか。
物をただで配ることで現地の経済活動はどうなるのか
お金を送り現地購入すれば、
現地で経済が動き出すのではないか。
いや、簡単には動かないぞ...などなど。

途上国に靴を送ろう
もちろんまだ使用できる靴を送る。
私たちは靴を履きつぶす前に新しい靴を買う。
そして古い靴を送る。
なるべく買い換えたほうがたくさん送れるし
日本の経済も回る。

でも、まだ履ける中古の靴は途上国に送って
日本では新しい靴に買い換える。
これを盛んにする。
こんな消費行動でよいのだろうかと考える。

ペットボトルのキャップを集める。
リサイクルできるから環境によい。
でもリサイクルにもエネルギーは使われるから
捨てられるキャップは少ない方がよい。
でも、たくさん集めるとワクチンが買えて
必要な事も達の命が助かる。
でも目的を整理すれば、
環境のためには排出されるキャップは少ない方がよい。
少しでも多くの命を救いたいのなら
キャップ集めるより、ペットボトル製品を買うのを我慢して、
そのお金を送った方が命はより多く救える。
エコキャップ運動とはどうあるべきか、
たくさん集めることはよいことなのか。

途上国に使った紙でノートを作っておくる。
自分たちが使った物をおくる。
確かにもらった人は喜んでくれるかも。
送る側ともらう側の関係を考える。
こちらは新しい物を買って使い、
まだ使えるのに相手におくる。
もらう側は相手が使わなくなった
使いかけや、再生品をもらう。
そのような関係でよいのか考える。

南北問題は途上国を発展させるだけが問題ではない
先進国と途上国との関係はどうなっているのか
私たちの暮らしとどのように関係しているのか
などなど、考えることはたくさんある。

もし学校で教育の一環としておこなれてるので有るのなら
最初に始まった行動から
何を築き、何を知って、何を目指すのか
子どもたちをどのように導いているのだろう。

きっかけはいろいろあって
行動に起こすことは素晴らしいことだ。
それは素直に凄いと思う。

でもね、その気持ちを大切にしたまま、
更にもう一歩進んで見たらどうだろう。

インターネットを見ていると
自分たちのしている活動に疑問を持って
調べて、考えて、活動が変化していく所もある。

受賞論文【優秀賞】「エコキャップ「運動」をやめた我がクラス」
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/guide_univ/e10_03_09_04_j.html

継続してゆくことは大事
でも変化してゆくことも大事。

「何かボランティア活動をしよう」と考えることが
出発点でもかまわない。
活動を進めていて、活動自体で満足せずに
本当にこの活動は意味があることなのだろうか
ひょっとして相手に役に立っていないかも
迷惑になっているのかも。
目の前では役に立っていても、
もう少し広い視点でみたらどうなのだろうか。

そんなこんな考えて
今やっていることが正しければそれでよし。
もし間違っていても変えてゆけばよいのだ。
いけないのはそこに留まってしまうことなのではないだろうか。  

Posted by かれい♂ at 13:05Comments(0)他力本願寺 本堂
プロフィール
かれい♂
飯田下伊那の
ブログリンクサイト
フルーツカクテル管理人

「南信州」
と言う言葉を使わず
かたくなに
「飯田下伊那」と言い、

「南アルプス」
と言う言葉を使わず
かたくなに
「赤石山脈」と言う、

こだわりを持った
人間というよりは
偏屈な人間。
オーナーへメッセージ
QRコード
QRCODE
インフォメーション
長野県・信州ブログコミュニティサイトナガブロ
ログイン

ホームページ制作 長野市 松本市-Web8